Diary

楽しい生活

インターネットと孤独

 ひとことで「インターネットが好き」と言っても、いろいろな「好き」の種類があると思う。人とコミュニケーションをするのが楽しいとか、テレビや雑誌からは手に入らないディープな情報を得られるとか。私はインターネットが好き。それは間違いないけれど、じゃあ、「私の好き」はどういう好きなんだろう? とぼんやり考えていた。SNSで積極的にコミュニケーションしているわけでもないし、ネットで知り合った人に会ったこともないし、何かの専門的な情報を集めるために使っているという訳でもないし。そこで、思い当たった理由として、ちょっと恥ずかしいけれど、「自分がひとりじゃないと思えるから」かもしれないと最近考えている。

 私の一番好きなインターネット活動(?)は、他人の書いた文章を読むことだ。twitterでもいいけれど、どちらかというと、その場の瞬発力ではなくて、ある程度時間をかけて考えながら書かれたものを読むほうがいい。それも、役に立つ情報というよりは、日記のような、ごく私的な文章を読みたいと思う。

 他人の私的な語りを聞きたいという欲求は、ふだんの生活ではなかなか満たされない。何を考えて生活しているのか、嬉しかったこと、嫌だったこと、悩んでいること。仲の良い友達とでも、そこまで個人的な話をすることってあまりない。ましてや、現実に関わりの無い人の考えていることなんて、絶対に知ることはできない。だからこそ、自分以外の人の頭の中にすごく興味がある。「自分語り」は一般的に良い意味で使われる言葉ではないけれど、私は自分語りを読むのが好きだ。

 人は、本当に悩んでいることは、自分と深く関わる人にほど簡単には言えないと思う。私は、小さい頃から、周囲の人に言えない悩みがたくさんあった。何か具体的に嫌なことがあったわけではなく、普通に楽しく過ごしていたのだけれど、なんとなくモヤモヤした気持ちをずっと持っていた。こんなことで悩んでる私っておかしいのかな?こんなことを言ったらひかれるかな? 家族や友達に言えない悩みのせいで寝つけないとき、リビングからノートパソコンを自室に運び込み、パソコンごと布団をかぶってインターネットエクスプローラーを立ち上げる。思いつく検索ワードをひたすら並べ、組み合わせ、検索結果を1ページ目だけじゃなくて、10ページ目くらいまで見ながら、同じような悩みを持っている人を探す。真っ暗な部屋のなか、布団にもぐって操作するパソコンの光が、文字通りの希望の光だった小学生がいて、その経験が私のインターネットへの信頼の根幹にある。

 昔、何かで見た「検索は祈りである」という言葉が印象に残っていて時々思い出す*1。「私と同じようなことで悩んでいる人がいますように」、「なにか解決策が見つかりますように」と必死で検索ワードを打ちこむ様子は、なるほど、救いを求めて神に祈る行為と似ているところがあるかもしれない。

 ある人に「インターネットに転がってる文章なんて、ゴミみたいなものばっかりじゃん」と言われたことがある。私は今まで書いたように、インターネットで文章を読むことが好きだから、ちょっとムカついたけれど、そのときは「そうかもね」と答えた。インターネットの海には、だれでも自由に文章を投げ込める。それも匿名で。書かれていることが正しい保障はないし、だれかを傷つけることだって、なんのチェックもなく世の中に発信することができる。確かに、ゴミばっかりだと捉える人もいるだろう。でも、多くの人にとってはゴミみたいな自分語りが、だれかの孤独を救ってくれるかもしれない。匿名だからこそ書かれた文章に、生きる勇気をもらった人もいるかもしれない。

 インターネットが無い時代に生まれていたらと思うとぞっとする。人が実際に関わるコミュニティは意外と小さいし、特に子どもにとっては学校と家庭が世界の全てだったりする。自分が周りと少し違うのかもしれないと気づいたときに感じる、宇宙でひとり漂っているような孤独感(自分が特別だと思っている悩みが、実は多くの人が抱える平凡なものということも往々にしてあるのだけれど)がもたらす絶望的な気持ちを、インターネットで出会った文章と、その向こうには私と同じように現実に生きる人たちがいるという事実が救ってきてくれた気がする。だから私はインターネットが好きだし、これからも知らない人が書いた文章を探して読み続けるのだと思う。

*1:調べてみたら、ラジオ番組でのある編集者の発言だった(文化系トークラジオ Life: 2011年5月27日 アーカイブ)。番組を聞き直してみると、検索順位の話だったので、私が言葉から解釈していた意味と全然違っていた……。